金 東柱(キム・ドンジュ、朝: 김동주、1976年2月3日 - )は、大韓民国のソウル特別市出身の元プロ野球選手(内野手)。

野球韓国代表の常連であり、シドニーオリンピック野球韓国代表、北京オリンピック野球韓国代表に選ばれた。2009年1月に韓国代表引退を表明し、第2回WBCには出場しなかった。

2000年シドニーオリンピック 野球 銅メダリスト。2008年北京オリンピック 野球 金メダリスト。

経歴

アマチュア時代

高校時代からパワーと正確性を兼ね備えた大型三塁手として鳴らした。高校3年生だった1993年の1次ドラフトでOBベアーズの指名を受けたが、高麗大学への進学を選択。大学卒業後、1997年の1次ドラフトでOBベアーズから4年越しの指名を受け、入団した。

斗山時代

プロ1年目から三塁手のレギュラーを奪取し、チームのポストシーズン進出に大きく貢献。以後、韓国を代表する右の大砲としての地位を確立した。

当時金、タイロン・ウッズ、沈正洙で構成された斗山のクリーンナップは他球団の脅威となっていた。

2004年オフに成績不振から引退宣言する騒動を起こしたが 、すぐに撤回。翌2005年は故障で終盤欠場したものの、打率.302、10本塁打をマークし復活を果たした。

2006年は、開幕前に行われた第1回WBC1次リーグの対チャイニーズタイペイ戦で肩を脱臼。帰国後に全治3ヶ月と診断され、わずか43試合の出場にとどまった。

2007年には119試合に出場し、打率はリーグ5位の成績を残した。

2007年オフにFA権を行使。引き止めのため、斗山は韓国史上最高額の4年62億ウォン(約7億円)という破格の条件提示を行ったが、金はそれを蹴り日本球界移籍を目指す。

しかし、金は日本球界移籍の最低条件として2年4億円という度を超える金額を設定。この要求額の前に獲得を表明するNPB球団は現れず、韓国野球委員会へ身分照会を行った球団もなかった。斗山も、元メジャーリーガー金善宇の獲得に大金を注ぎ込む方針に切り替え、契約提示を撤回してしまった。

年明けの2008年1月6日、斗山から梯子を外された金はなんとしても日本球界移籍を果たそうと自ら来日。翌日の7日、横浜ベイスターズの球団事務所に直接押しかけ、売り込みを行った。しかし横浜からは門前払いを受けた。

結局日本球界移籍を断念し、失意のまま韓国に帰国。斗山と再契約の交渉に入る。14日に、当初の提示額を大幅に下回る年俸7億ウォン、出来高2億ウォンの1年契約を締結した。

2008年オフも日本球界への移籍を図ったが、斗山が移籍を認めなかったことで断念。

2011年オフ、2度目のFA権行使で再び日本球界への移籍を目指したが、どこからもオファーはなくまたも移籍に失敗。斗山と2012年からの3年契約を結び残留した。

2012年は足の故障もありシーズン後半は試合に出場せず、6年ぶりに出場試合数が100を下回った。

2013年は許敬民にポジションを奪われ、さらに出場機会が減少した。

2014年はプロ入り後初めて一軍出場がなく、同年オフに斗山から戦力外通告を受けた。

その後は現役続行を希望していたが、契約する球団はなく翌年1月に現役引退を表明した。

プレースタイル・人物

センターまで125メートル、両翼まで100メートルと韓国で最大規模の蚕室野球場で場外ホームランを打った唯一の選手であり、プロ入り後しばらくは長打力を最大の武器にしていたが、2004年以降は相次ぐ故障もあってシーズン20本塁打を越えたことが無くなり、代わりに柔らかいバッティングができる中距離打者へと変貌を遂げた。

重さを感じさせる体格のため膝に故障を抱えており、守備に関しては守備範囲が狭く失策も多い。

応援歌はかつて姜永寿と李明洙が使っていたものの流用である。

詳細情報

年度別打撃成績

  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

  • 首位打者:1回(2003年)
  • ゴールデングラブ賞:1回(2007年・三塁手)

背番号

  • 18 (1998年 - 2014年)

脚注

注釈

出典

関連項目

  • オリンピックの野球競技・メダリスト一覧

外部リンク

  • 通算成績 (朝鮮語)

金柱图片素材编号31915695图行天下

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韩国又石大学国际交流处金东柱处长一行来我校参观访问

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